2011年3月11日の覚書:病院で東日本大震災

3.11の覚書
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これは私の覚書のようなブログです。

当時、3.11のことを忘れないように記録しておこうと思い、そのままの感情で書いたアメブロに書きました。

ほとんど修正はしていません。

目次

当時の私の状況

私は当時、都立病院で看護師として働いていました。

3.11は4月に新人を迎い入れるために、日勤業務でしたが病棟ではなく、別の場所で同僚とミーティングや準備を行っていました。

その後、私はDMAT(災害医療チーム)の心診療チームの一員として5月に陸前高田に支援に行きます。

大震災の記憶

2011年3月11日 (金) 日勤

この日は、次年度(4月1日)から迎える新人看護師のプリセプターと一緒に計画作り。

日勤だったけど病棟での仕事はせず、別の場所でミーティング。

ミーティングの最中に地震。

縦揺れの段階でやばいと思いました。

最新型の病院は揺れただけで被害なし。

夜勤者の1名が来ず、私が残業に。

20時、夜勤者到着。

私は同僚の彼氏の車で帰宅。

大渋滞の中、約4時間かかって0時過ぎに自宅へ着く。

道々、車の中から歩いて帰る人々を見る。

今まで見たことのない東京の光景。

補足

当時の帰宅手段

私は同僚の彼氏さんの車で帰宅できましたが、ほとんどのスタッフが病院に泊まりました。

病院について

都立小児総合医療センターは3つの小児専門病院が統合。

震災の前年2010年3月1日に設立された新しい病院でした。

そのため地震で大きく揺れたものの、棚から物が落ちることなく、当時私が働いていた病棟は安全な建物となっていました。

私が住んでいる家の中の状況

家に帰るとテレビが落ちていて・・・壊れていました(涙)。

これ以降、テレビを買うまでの数ヶ月間はテレビなしの生活になります。

今考えると良かったのかもしれない。

スピリチュアルカウンセラーの震災日記

3月12日(土) 日勤

6:30に自宅を出る。

地震でテレビが落ちて壊れていたが、ニコニコ動画でかろうじてNHKは見れる。

京王線は通常運行とのニュースを信じ、明大前へ。

府中方面はホームが閉鎖され、行くことができない。

あわてて病棟に連絡。

急遽、吉祥寺へ。

中央線は不安定に動く。

昨日の地震で自宅に帰れなかった帰宅難民の人々でいっぱい。

一駅進んで10~20分以上停車を繰り返す。

10:45、病棟到着。

子どもたちの笑顔が心に響く。

帰りは南武線をつかって帰宅するも、スムーズ。

このまま、復旧すると思っていた。

そして、まだ世田谷のスーパーにはものがあったような気がする。

しかし、この日に1号機の素爆発で原子炉建屋を損傷があったんだ。

補足

この日は土曜日で、まだ混乱していたせいか、電力不足の話もなかった記憶がある。

11時前に病院に到着すると、院内外出中の子ども達にバッタリ会って

(1階のローソンで買い物していたらしいw)

「よしみねさん、こんな時間に何してんの?」

「朝、家を6時に出たけど今着いたんだよ」

こんな会話をしたら非常に感心された。

「すげ~」って。

昨日、帰宅できなかったスタッフがまだ病棟にいて

「たぶん、病院内のコンビニの食料もなくなるだろうからさ」と他のスタッフの分も買っておいてくれたりと

本当に色々な人の心使いが身にしみた日々だった。

でも、まだこの頃は甘かった。

まさか・・・電力不足で計画停電、エレベーター禁止とは思ってもいなかったから。

あと、通勤の片道が1時間30分の私にとっては、通勤をどうするかが毎日のテーマでした。

3月13日(日) 日勤

12日の爆発から一夜あける。

一部の人たちから放射能にかんする情報が入るも、私にとって日勤は代わりなし。

日曜日で、地震後ということもあってスムーズに通勤。

しかし、病棟で計画停電の話しを聞く。

帰宅もスムーズ。

明日は夜勤だから、この寝不足の日々を解消しようと思っていた。

祖師ケ谷大蔵に着き、駅前スーパーに行くとレジに長蛇の列。

並ぶ元気はもちろんなく、別のスーパーに行く。

そこも、なんだか商品がない。

原子力発電所の最悪の事態を考え、非常食を少量購入。

不思議なことに、ビスケットやチーズかまぼこといった保存食は普通にある。

みんな、どうした???。

なんだか、世の中の空気がおかしくなっている。

補足

震災後から電子力発電所のことを気にしているのは

実は20歳の時に広瀬隆氏の「危険な話ーチェルノブイリと日本の運命」を読んでいたからなのです。

それで、うっすらと地震と原子力発電所の関係や、国内での被害の度合いなどの知識があったからなのです。

夜勤は大変でした

3月14日(月)  夜勤入り

爆睡していた。

すると、一緒に夜勤をする同僚から電話で起床。

都内の電車がのきなみ止まっている。

動揺を隠せない。

こんな時でも、とにかく病院に行かなければいけない。

1人が車を出してくれることになり、16時開始の夜勤のために12時過ぎに出発する。

ガソリンスタンドには車の列。

そのための渋滞。

なんとか夜勤には間に合う。

職場は計画停電となっていた。

補足

夜勤メンバーの奇跡

世田谷から府中にある病院まで電車が止まると行く手段がないのだけど

なぜか奇跡が起きて

その日の夜勤メンバー3名は全員世田谷に住んでいた。

1人のスタッフのご好意により車を出してくれることになり、本当にありがたいことになり出勤できた。

しかしながら医療職は、どんな状態でも絶対に休めない。

それは後に陸前高田市にDMATで行った時も思った。

自分の家が流されている行政職員は自分のことよりも仕事をしている状態だった。

計画停電

当時、私は子どもの心&心専門の24時間救急受け入れ病棟の配属だった。

で、閉鎖病棟だった。

とにかく空気を循環しないと、ナースステーションは大変になる。

ナースステーションも密室みたいな作りだったので。

夜勤で出勤すると、なんだかナースステーションが蒸し蒸ししていて大変だった。

ちなみに、その後、東京都が東電に掛け合い病院は計画停電から除外される。

500床以上ある病院だから計画停電に入ると非常に大変だったのは言うまでもありません。

3月15日(火)  夜勤明け

車で送ってもらう。

世田谷は停電にならず。

道々、スーパーで買い込む人々。

何が何だかわからないが、知人を含め、色々な方面から心の整理ができずに大変だという話を聞く

この辺でようやく

「みんな、おかしくなっている。やばいなぁ」と感じる。

「こういう時だ、普通に暮らそう、現実を受け入れよう」

そんな風に感じるようになった。

帰宅して、お風呂に入り(停電になってなくて、ありがたかった)

そして、爆睡。

22時台に地震。

飛び起きる。

そして、また爆睡した(汗)

補足

この頃、日本全体が精神的にも大変だったと思う。

看護師という職業の良いところ???は、とにかく自分のことは考える暇がないこと。

電車の本数は減っているし、通勤時間はかかるし、夜勤もあるし・・・。

こういう生活で1日を過ごすのが精一杯で、あんまり他のことを考えてもいなかったような気がする。

テレビが壊れた

3月16日(水) 休み

ようやく休み。

永遠と寝ていたせいで、朝7時前に起床。

マンション前のスーパー(10時開店)には、すでに列が!!。

11日からこの日まで、地震直後のままの部屋だった我が家。

ようやく掃除開始。

割れた小物を片付ける。

壊れたテレビと、割れた小さな小物1個が教えてくれる。

自分たちが犠牲になることで他のものを守ったんだと。

涙がでそうになって、壊れたテレビをなでた。

物はちゃんと話す。

こういう時に、自分のリーディング能力や見えない力があって良かったと思う。

午後から買い出し。

こんな時に限ってお米がなくなる!!!!。

非常にまずい。

卵もない!!!。

これもまずい。

でも、耳元で声が聞こえる。

「お米も卵も買えるよ。大丈夫」

すべてを自分の直感と声で動くことにする。

すると、いつものお米屋さんでお米が買え、卵も買えた。

洗濯洗剤もいつもと変わらずセール価格で買え、なんだかいつもと変わらない。

でも、違うスーパーに行けばお米も洗剤もなかった。

がんがん上からメッセージが入り、ツイッターに書き込む。

外は陰のエネルギーが強く、さすがの私もヘトヘト。

アロマのオレンジで回復。

がんばろう、東京と思った。

補足

ちなみに、割れたものはCDケースくらいでした。

食器とか無事でした。

3月17日(木)  日勤

放射能の危機が言われる中、出勤。

朝6時に家を出る。

スムーズに病棟へ。

いつも以上に仕事がはかどる(笑)。

17時直前、大規模停電のニュース。

とにかく急いで帰宅したいのだが、途中で大混雑。

よく人身事故がおきないものだと感心するくらいの人の量。

それでも、誰も大声を出したりしない。

響きわたるのは鉄道職員の声。

帰宅するとコズミックカンパニーから届け物。

昨日申し込んだオーラスプレーがもう届いていた。

看護師と書いていたので優先的に送ってくれたらしい。

自分だけで使う量ではない。

そうやって使おうかと思案中。

そう言えば看護長に、私の名前が災害プロジェクトメンバーに入っていたと昨日聞いたことを思い出す。

もし行くとなれば、その時にこのスプレーは大活躍するだろう。

もしくは夜勤中に、こっそりナースステーションにスプレーするか。。。

色々考えてみることにする。

明日も日勤。

さて、電車はどうなるのか?。

何があっても出勤しないといけないのだ。

補足

コズミックカンパニーからの届け物とは:震災後、オーラスプレーをプレゼントしてくださる企画があったのです。

お礼のメールもする暇もなく、届いた後に入金だけしました。

すみません・・・お礼せずに。

非常に助かりました。

災害プロジェクトメンバー:DMATのことでした。

結局は、4月に新人を受け入れる担当だったので5月くらいに派遣されました。

3月18日(金) 日勤

さすがに1週間ともなると疲労困憊。

仕事終了後、勤務時間は過ぎているにもかかわらず

全職員はお偉いさんの話しをきくことに。

話を聞きながら

エレベーターも使わず7階まで階段で上がり

そのまま立ちっぱなしで働いている現状を思うと

なんだか今までの不満が心の中にどんどん出てくる。

そして、ふと思う。

東京電力の人たちって大変だろうなと。

きっと東京電力の現場は必死だと思う。

でも色々なところで叩かれて大変だよなぁと。

現場はどこでも大変なんだよなぁと。

帰りに新宿による。

奇跡的に買いたかったLED懐中電灯が買える。

それも、買おうと思っていた商品だった。

やっぱり自分を信じるべし、と改めて思う。

地震とともにテレビが壊れて1週間。

いい加減にバラエティが見たい(笑)。

あぁ、テレビとかお笑い番組って本当に大切なんだと感じる。

人が発明したものには意味がある。

無駄なものなんてないのだ。

それを、どう効果的に使うかが重要なのだ。

あとは何だか寄付ブーム。

それも何だかこたえてきた。

万単位であちこちに寄付できる身分ではないのだ。

そういう現象を体験してまた思う。

偽善者ごっこはやめよう。

とにかく今、目の前のことを大切に、自分の役割に集中しよう。

原発の中で命をかけて作業している方々、本当にありがとう。

私も大切な今の仕事を頑張ります。

みんなが今、できることをする、普通に暮らす、身体はちゃんと休める。

それだけでいいんじゃないだろうか?。

おやすみなさい。

補足

11日から1週間たって

そろそろ私はとっても病んでます。

手一杯だったんだろうなぁと思う。

そして当時のブログはここで終了しています。

震災を忘れない

余裕がない日々でした

その後のアメブロの記載を見ていると

「直感を信じる」という言葉のオンパレードです。

ほんと、余裕がなかったんだろうなぁと過去の自分をみながらそう思います。

そして、この時の記憶は定期的に心の奥底から引っ張り出した方がいいんだろうなぁとも思ってます。

だからこそ、こちらのブログに、アメブロ記載のものをお引っ越ししました。

当時の公的機関のひとりの看護師が、どんなことを思い、どんな感じで通勤していたか感じていただけたら幸いです。

ただし、これはあくまでも私個人の思いであります。

3.11の覚書

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